1.金曜日午後一時半。コンクリートが

1.金曜日午後一時半。コンクリートが

二〇二六年七月三十一日 千葉県佐倉市

 金曜日午後一時半。コンクリートが剥き出しの無骨な研究棟に、高千穂バイオテック株式会社のスタッフ全員が集まっていた。社長の宗田武を含む総勢十九人が、まもなく始まる、会社の存亡を懸けた実験の準備を見守っている。彼らの視線を背中に浴びて装置の最終チェックをしているのは主任研究員の滝沢智則。いつものようにスウェットの上下に白衣を羽織り、サンダルをパタパタと鳴らして歩き回っている。歩くたびに揺れる後頭部の寝癖は、彼のトレードマークだ 。一見、淡々と作業を進めているようだが、近づくと、祈りにも似た呟きが聞こえてくる。
「大好きだよ、《ラン》。頑張ってくれよ」
 《ラン》とは三年前、二十九歳で結婚した妻の名でも、もちろん、愛人の名前でもない。Regeneratable Artificial nerve.つまり、可再生人工神経の頭文字を取ってRAN──《ラン》。
 強化ガラスで仕切られた一画。天井から、二本の、二メートルほどの鉄製フックが下がっている。間隔は一メートル。フックには、直径二センチほどのシリコン製のホースが吊り橋のように下げられている。 ホースの全長は約三メートル。近所のホームセンターで買った普及品だ。ホース内は透明の液体で満たされ、中に、太さ五ミリほどの乳白色の蛇がいる。いや、蛇ではない。その、皮を剥いだ蛇を思わせるケーブルこそが《ラン》の本体だった。ホース内の高粘性用液と合わせてラン・システムと呼ばれていた 。

 ホースの両端は陶器の丸いチップでふさがれている。チップの中心には穴が開けられ、そこから、剥き出しの《ラン》が、床に向かって伸びている。右端から出た《ラン》は床をうねり、特殊なコネクターによってコンピューターに接続されていた。左端から出た《ラン》も床を這ってから別の装置に繋がれている。装置は、バッテリーや計測装置を内蔵した台座と、その上に設置された「ユンデ」によって構成されていた。「ユンデ」は、人間の左手首から上を、機械で再現したものだ。左手を意味する弓手から、そのまま命名されている。設計は工科大学の教授に依頼し、各パーツは東京大田区の金属加工工場が製作した。その他のパーツも国内メーカー特注品で、ユンデには億に近い金が注ぎ込まれていた。外国製の汎用パーツを使えば安く作れたが、それを避けたのは、宗田武と滝沢智則の、メイド・イン・ジャパンだけですべてを賄うという強いこだわりのせいだった。彼らが目指したのは日本独自の技術で世界を驚かせる事、さらには、強い日本の再生だった。十五年前の大震災の後、政府は内政、外交に関する対応を誤り、迷走し、その結果、国は経済大国の座から滑り落ちてしまった。かつて誇っていた技術大国ニッポンの栄誉も他国に譲って久しい。数々の先進技術が海外に流出し、市場は模倣品であふれている。安価な労働力を求めて生産拠点を海外に移した副作用のひとつだ。日本はグローバリゼーションの海で溺れていた。
 リジェネレイタブル。《ラン》には日本再生への願いが託されていた。
 滝沢智則はヘッドセットを装着すると、マイクに向かって小声で「グー」と呟いた。するとユンデは即座に、軽やかな金属音とともに拳を握る。続けて「チョキ」「パー」──デジタル変換された滝沢の声が《ラン》を通して伝わり、ユンデを動かしたのだ。
「準備できました。社長がやります?」
 滝沢が宗田武を見て言った。
「いや、滝沢、おまえがやれ。おまえにはその権利がある。もちろん、責任もな」
 社長というよりは柔道部のコーチを思わせる宗田が、冗談めかした口調で言った。
「あははは」
 笑いながら滝沢は白衣の前をきちんと留め、耳栓をした。他のスタッフたちもそれに倣い、配布されていた耳栓を詰め込む。
「始めます」
スイッチを入れると警告音とともに強化ガラスブース内の赤色灯が明滅する。
「十秒前」
 一同の視線がブース内の射撃台座に固定された89式5.56mm小銃に集まる。陸上自衛隊が二〇一〇年代まで標準配備していたアサルトライフルを実験用に改造したものだ。
「九秒前、八秒前、七秒前──照準」
 黄色いスイッチを押すと、照準用のレーザーポインターがラン・システムの中央部に赤い点を描く。調整は完璧だ。銃の設置を担当した元自衛官の君島浩二が小さく息を吐き出す。
「三、二、一、発射」
 滝沢は、赤いスイッチを押す。射撃音がコンクリートの建物に反響して、消える。銃弾がラン・システムを引き裂き、背後の弾痕だらけの防護シートに食い込む。ホースは弾かれたように跳ね上がり、千切れ、重力に従って垂れ下がる。その動きがゆっくりとしているのはホース内の高粘度の液体のせいだ。
「通電」
 青いスイッチを、滝沢智則は祈りをこめて押した。《ラン》──頼む。
二本に分断されたホースの、コンピューターに接続された側がまばゆく発光する。
「断面間距離、約五十ミリメートル」
床を向いたホースの断面からドロリと流れ出した液体が意志を持ったように「仲間」を求めて動き出す。その中では白蛇が──

 社員たちにとっては見慣れた、神秘的、かつ、グロテスクな光景だった。高千穂バイオテックは戦闘用ロボットの開発を行う企業ではあったが、そこには「ロボット」と聞いて人が思い浮かべる情景はない。生物の、しかも原始の力が、場を支配していた。
 銃撃によって切断されてから十二秒後、白蛇は再生した。欠損した部分は、粘液が固まって、まるでホース自体が再生したように見える。専門学校を出て入社したばかりの宇田春香が拍手をすると、隣に立っていた姉の夏樹がそれを止めた。
「ここまでは何度も成功しているの。問題はこの後」──夏樹は妹に囁いた。
 まったくその通り、と、すでに耳栓を外していた滝沢はうなずく。そして大きく深呼吸してからマイクに向かって──
「ピース」
 思わず目を閉じる。背後から同僚たちの拍手と歓声が上がる。
(やった──)
 目を開き、何事もなかったかのように「チョキ」を出しているユンデに、滝沢は微笑んだ。
(ヴィクトリーにすれば良かったかな)
「やったな、滝沢」
 宗田が背後から肩を叩きながら言った。
「はい」
「プレゼンは乗り切れそうか?」 
「大丈夫です。同じロットがまだ沢山ありますから。高千穂さん、驚きますよ」
 週明けに、高千穂光学の社長が見学に来る予定になっていた。社長の高千穂晃は、四年前に資金難に陥り、解散寸前だったこの会社──当時はスサノオ・インダストリーだった──を買い取り、潤沢な研究資金を提供してくれた恩人だった。

「さっき連絡があってな。高千穂さんは、来ない」
「延期ですか!?」
「いや、高千穂さんは、このプロジェクトから手を引いた」
「ええっ──」滝沢はビジネスについては素人同然だったが、金にならない研究をサポートし続けるほど、投資家たちが気長ではないことは理解していた。滝沢の手を握って《ラン》の素晴らしさ、中でも、強い日本を取り戻すという理念を称えてくれた高千穂の顔を思い出し、気分が沈んだ。しかし──
「じゃあ、出資先を探さないと。これからは現物でプレゼンできるから、銀行にも行けますね。ああ、そうだ。また重機メーカー回ってみます?」
 ラン・システムは戦闘用ロボット「スサノオ」の汎用伝送ケーブルとして開発されていたが、デジタル情報やエネルギーが流れるケーブルなら、ほぼすべてに応用可能だ。しかも、自己再生可能。実用化もそう遠い未来ではない。滝沢はラン・システムには絶対の自信を持っていた。
「ちがう。高千穂さんは持ち株すべてを他の会社に売った」
「えっ!? ああ、ってことはスポンサーはもう決まっているんですね」
「ああ、資金力で言えば高千穂光学など比べものにならない」
「わあ! どこです? もしかして日立? あ、三菱──ああ!」
 滝沢はポカンと口を開けて大学の先輩でもある宗田を見た。やがて表情を崩す。
「ついにやったんですか!? ついに防衛省が! 名取幕僚が動いてくれたとか!」
「おまえの未来はいつも明るいな。その調子でこれからも頼む」
 宗田は苦笑する。
「先輩、教えてくださいよ」
「オベール。月曜までは他言無用だ。いいな」
 滝沢智則は逃げるように立ち去った宗田武の後ろ姿を目で追った。追いかけて問い質したかったが、足が、まったく動こうとしない。立ったまま腰が抜けたようだった。いや、実際は、怒りで動くことができなかった。
(先輩──《ラン》は外国の会社に売られたってことですか?)
 オベールはフランスの大手兵器メーカーの名だった。



八月一日 静岡県富士山麓

 土曜日。1330時。エンジ色のヘルメットと訓練服に身を包んだ東都防衛学院中等部一班──東防中一班──は、深いブナ林の中を、第三陣地目指して進んでいた。班長を務めるのは瀬波ヒカリ。班員は名取トウコと鶴見タロウ。三名で構成される小班に課せられた任務は第三陣地までの斥候だった。彼らの行動によって背後に控える仲間たちの運命が決まる。
(暑いね。それに、重い。でも、ヒカリ。頑張って)
 名取トウコは、三メートルほど先をよろよろと進むヒカリの背を見つめていた。小柄なヒカリは重さが十キロはある背嚢に押し潰されそうだ。両手で支える八九式 自動小銃が腕の力を、暑さと湿度が体力を奪っていく。

「わたし、自分を変えたいんです。両親やお兄ちゃんたちを見返してやりたくて」
 一年生の夏、クラス対抗二キロ走の途中で走るのを止めてしまったヒカリは、泣きながら訴えた。
「でも、やっぱり無理」
「行こう、ヒカリ。わたしが一緒に走るからがんばろう?」
 トウコは励まし、なんとか完走させた。ゴールしたヒカリの喜びようはよく覚えている。しかし、後ろめたかった。面倒を見たのは、クラスから脱落者を出したくない一心。目標を学年一位から全員完走に切り替えなくてはならなかったのはヒカリのせいだ。責めたくなる気持ちを抑え、一緒に喜んだ。不本意な結果でも、ヒカリにとっては快挙なのだ。これで自信をつけてくれれば、次に繋がる。
「良かったね、ヒカリ」

「名取さん、無理です。どうしてわたしが班長なんですか?」
 ヒカリが立ち止まり、振り返って訊いた。眼鏡が曇っている。
「伏せろ!」
 背後から鶴見タロウが叫ぶ。トウコは反射的に伏せる。
「なんですか?」
 状況を飲み込めないヒカリが伏せたトウコを見下ろしていた。
「伏せて!」
 トウコが叫ぶ。ヒカリの胸にレーザーの赤い光が灯る。匍匐前進でヒカリに近づき、足を引っ張って倒そうとしたが間に合わなかった。銃声がしたかと思うとヒカリの胸が赤く染まる。衝撃で倒れる小柄な身体。
「いやっ!」
 伏せろと言われたら伏せる。理由を考えるな。誰よりも早く指示に従え。それは入学以来、徹底して叩き込まれたことだ。躊躇していると──トウコはまた銃声を聞き、同時に、右肩に衝撃を受けた──こうなる。訓練服の肩がベットリと赤く濡れていた。
また銃声が聞こえた。
「うっ」背後から鶴見タロウの無念そうな声がした。
「東防中第一班、全滅! 第三陣地までハイポート、駆け足!」拡声器を通した教官の声が林にこだまする。「次、第二班! 班長は吉野サトシ、班員、市井コウジ、松浦アン!」
 名取トウコは立ち上がり、銃を両手で頭上に掲げる。後ろにいた鶴見タロウが同じ姿勢でトウコを追い抜き、倒れたままのヒカリにねぎらいの言葉をかける。しかし、ヒカリは倒れたまま動かない。
「行こう、ヒカリ」
「こんな訓練無謀ですよね」ヒカリがかすれた声で文句を言いながら立ち上がる。「林の中なんて、年に一回しか歩かないんですよ? しかも、自衛隊が隠れて撃つなんて──」
 トウコに訴えるその顔は土と涙で汚れていた。
「うん。でも、サービスなんじゃないかな。こんなこと普通じゃ体験できないし」
 トウコは冗談めかして言った。
「一班! ハイポート! 走れ!」
「ああ、鬼が怒鳴ってる」ヒカリはそう言うと、銃を頭上に掲げる。「あの人たち、こっちが中学生だってこと、時々忘れますよね」
 確かに中学生だ。十五歳。しかし、普通の中学生ではない。二年半、兵士になる訓練を積んだ中学生。自ら、この道を選んだのだ。
(ヒカリもそうでしょ? 一人前として扱ってもらえるのは、喜んでいいことじゃないの?)
名取トウコは、足踏みしたまま待っている大柄な鶴見タロウに微笑むと、ヒカリを無視して駆け出した。
「名取さん、待ってくださいよう」
 東都防衛学院中等部。陸上自衛隊教育隊の全面協力下で行われる夏季総合演習の初日だった。

2.午後三時。滝沢智則と宇田夏樹は へ移動