2.午後三時。滝沢智則と宇田夏樹は

2.午後三時。滝沢智則と宇田夏樹は

八月一日 千葉県佐倉市

 午後三時。滝沢智則と宇田夏樹は社のオフィスにいた。駐車場入り口に常駐している警備員には突然決まった休日出勤だと告げていた。オフィス内を完全に起動状態にすると、夏樹はサーバを制御する端末を操作する。
「滝沢さん?」夏樹が訊いた。「滝沢さんがわたしを脅したって言っても、誰も信用しないと思うんだよね」
 確かにその通りかもしれないと滝沢は思う。しかし、納得してはいられない。
「ぼくみたいな真面目な人間は、思い詰めると何をやらかすかわからない。そのセンでいけないかな」
「うーん、まあ、思考停止の人はそれで納得するかもね。でも、わたしも共犯ってことでいいよ。滝沢さんがいない会社なんて面白くなさそうだし」
「気持ちはうれしいけど、これは犯罪だよ。刑務所か罰金か。経歴に傷がついて、どこも雇ってくれなくなる」
「わたし、ハッカーだから。雇われなくてもなんとかなっちゃうと思う。ここに来るまではフリーだったしね。あ、ハッカーってイメージ悪いか。そういうんじゃないんだけど──」
「──想像もつかない世界だな。でも、どうしてうちに入社したの?」
「就職したら親が安心するでしょ。それに話したじゃん。求人広告が面白かったからって」
「『一緒にロボットを作って侵略者から日本を守りませんか』」
「そうそう。なんか、燃えた。日本って、ほんとダメって思ってた頃だったから。ほら、丁度、島と天然ガスを交換した頃」
「ああ」
「ねえ、準備できたよ。どうする?」
「《ラン》に関するデータを全部消して欲しい。サルベージできないように」
「それもいいけど、書き換える方が面白いんじゃない? データがインプットされた時からその値だったことにできるよ。それだと、ほら、時間が稼げる」
「時間って──何の時間?」
「逃げるんでしょ? データが消えているとすぐに大騒ぎになる。わたしたちがここに来たことは、警備員が知ってるわけだし、ほら、マズい」
「そうか、時間が稼げるのはいいなあ。じゃあ、まかせるよ」
「奥さんはどうするの?」
 夏樹に訊かれ、滝沢は真っ青になった。《ラン》の海外流出を阻止することに頭がいっぱいで、妻のことはまったく考えていなかったのだ。



八月十四日 東京都新宿区西新宿

 午前九時。田之倉秋峰は西新宿で覇を競い合う外資系高級ホテルのひとつ、ワッツ・ホテルのロビーラウンジにいた。弛めていたネクタイを締め直し、この二週間で形が崩れてしまったスーツの袖や裾を引っ張る。少しでも皺を隠したかった。これから会うのは本社から派遣されたフランス人の女だ。身だしなみにはうるさいだろう。スーツの内ポケットから櫛を出して、髪の毛を撫でつける。四十になったばかりなのに、頭髪はほとんど白髪だ。遺伝だから仕方がないと諦めているが、仕事柄、目立たないように染めた方がいい。なんとかしなくてはと思いつつも、多忙を理由に放置していた。普段見て見ぬ振りをしていたことが、この場所で一気に自分を責めている。そんな気がしていた。
「コンニチハ」
 おかしなアクセントの挨拶に田之倉は反射的に立ち上がる。こんにちはと返しながら相手を見る。小柄な、美人だ。二十代半ばか。もしかしたら四十かもしれない。外国人の年齢はよくわからない。膝丈のワンピース。真っ白だ。素足にミュールを履いている。爪にはきれいにペディキュアが塗られている。
「タノクラサン? クリス・アリオー、デス」
 デスのところで軽く舌先を噛んだ。Deathじゃねえよと田之倉は思う。
「わたしは通訳の吉田です。よろしくお願いします」
 クリスの背後から吉田と名乗ったジーンズにTシャツの若い男は日本人には見えなかった。両親の一方が外国人なのだろう。座りましょうと吉田が促し、一同は席に着いた。すぐにウェイターが来る。クリスが、どこの水か、と訊いた。英語だ。ウェイターは流ちょうな英語で、カナダ産、スペイン産、フランス産があると応える。クリスたちはガス入りのミネラル・ウォーターを注文する。
「日本産じゃなければいいです」
 吉田は言った。田之倉は自分が貶められたような気がした。クリスが来日してから二、三日経つはずだ。食事はいったいどうしているのだろう。いちいち、材料がどこから来たのか確認しているのだろうか。
「もう十五年だから大丈夫ですよ」
 田之倉は言わずにはいられなかった。吉田がそれをクリスに通訳する。クリスは興味なさそうに窓の外を見たまま何か言った。
「時間が経ったからなんだというのだ。それに、大丈夫だと言うなら証明すべきだと言っています。それより田之倉さん、滝沢智則の行方は?」
「間もなく、見つかるはずです」
 吉田が田之倉の言葉をクリスに伝える。クリスの眉間に皺が寄る。そして田之倉を見据えるとフランス語でまくし立てた。吉田が苦笑いをしている。クリスが話し終わると、吉田が身を乗り出す。
「田之倉さん。あなたのその報告を聞いたから、我々は日本へやってきた。間もなくというのは、本社では一時間以内という意味だ。だから、大急ぎで飛んできた。それなのにもうまる二日。いったいどうなっているのか。日本は暑い。暑い国なら沢山行ったが、こんなに湿度が高いのは初めてで、うんざりしている。一緒に来たエージェントたちもイライラしている。間もなく見つかるという根拠を示せ──と、クリスは言っています」
 吉田が椅子に座り直すと、クリスは田之倉を見て微笑んだ。
「実は──」田之倉は考える。滝沢が間もなく見つかると思っているのは本当で、根拠がないわけでもなかった。それを話すべきだろうか。いや。止めておこう。この計画は違法行為だ。相手が誰であろうと事前に告知するのは危険だ。「今夜。遅くても明日の朝には良い連絡ができるはずです」
 吉田がクリスに伝えると、彼女はまだ窓の外を見たままうなずいた。
「多少の行き過ぎは会社がカバーします」
 吉田が声を潜める。
「わたしもそう聞いています」
「社にとって、それほど重要なミッションだということですよね?」
 吉田が訊いた。いや、質問ではない。わかっているんだろうな、おまえ──静かな恫喝に、田之倉には聞こえた。
「ええ、わかっています」
「だったら、いいです」
 吉田はジーンズの尻ポケットから小さな十字架を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これは?」
「クリスからのプレゼントです。これを持っている人間は任務を首尾良く達成できる。トライデント本社のエージェントたちには人気があるんですよ。パリの小さな教会で売っています」
「わたしはキリスト教徒じゃありませんよ」
「クリスもです」吉田が笑う。「でも、こんなものにも頼りたい。そんな気持ちだということです」
 ああ、と田之倉は曖昧に応え、十字架を眺め、スーツのポケットにしまった。
「良い連絡を待つ。明日の朝までは」
 クリスが英語で言った。約束すると告げ、田之倉は席を立った。

 トライデントは世界中に支社を持つセキュリティ会社で、本社はフランスのパリ郊外にある。日本に進出したのは一年前。田之倉は半年前から社員として働いていた。トライデントの利益の多くは紛争地帯への兵士派遣によるものだったが、元は個人警護サービスの会社としてスタートしていた。日本支社は各種警護サービス以外、本来は取り扱っていない。田之倉も入社以来、ボディガードとして過ごしていた。しかし、今回、支社長室に呼ばれて命じられたのは、行方不明になった男を捜せという、まるで探偵のような仕事だった。元刑事という経歴が認められたらしい。トライデントの機能をすべて使って良いという許可もあった。うっすらと、トラブルの匂いがした。しかし、社命を断ることなどできるはずもない。失業率が過去最高を記録した今、そう悪くない給料を捨てる気はなかった。別れた妻が住むマンションのローンと、この春、高校に入った娘の養育費を支払い続けることがすべてに優先する。誠意を見せ続ければ、いつかまた家族に戻れる日が来ると田之倉は信じていた。

 ホテルの地下駐車場は蒸し風呂のようだった。車の中ではスタッフの藤巻晃が居眠りをしていた。このミッションで相棒になった二十代後半の男だ。一見、良家で育った好青年だが、服を脱ぐと、肩から両腕にかけて、ビッシリとタトゥーが入っている。腹には刺された傷があるという噂もあった。
 窓をノックすると藤巻が慌ててロックを外した。助手席に乗り込むと、エアコンの冷気が肌を突き刺す。
「寒いな」
「厚着してください。寒いのはなんとかなるけど暑いのはどうしようもないっすよ。で、どうでした? フランスさんは」
「美人だった。怒っていたけどな。さあ、八千代に向かってくれ」
 ああ、と藤巻はカーナビを操作し始めた。「滝沢のマンションっすね?」と言い、番地まで入力する。田之倉は、ほう、と感心した。
「滝沢見つけたらビッグ・ボーナスですからね。そりゃなんでも覚えますって」

 首都高は比較的順調に流れていた。
「タノさん、元刑事なんですよね? コネで情報入らないんですか?」
「警察は動いていない」
「会社のデータメチャクチャにして、なんか持ち出して、姿を消す。これ、犯罪ですよね。電子計算機損壊等業務妨害罪でしたっけ? それに窃盗」
 藤巻の口から法律用語が出たことに田之倉は驚く。
「何条だか知ってるか?」
「刑法234条の2」
「おまえ、何者だ」
 笑いながら訊く。
「その質問、おれ好きっすね」
「まあ、その通りだ。しかし、会社側は被害届を出していない。警察は何も知らず、その代わりに、おれたちが動いている。滝沢が働いていた高千穂バイオテックの親会社、フランスのオベール社の依頼だ」
 そして我がトライデントは、かつてオベールの一部だった。今でも持ちつ持たれつの関係。
「会社側も何か後ろめたいんですかねえ」
 いや、と田之倉は思う。逃げている滝沢智則は社の機密を持ち出している。その正体を、オベールは世間に知られたくないのだ。警察の捜査が始まれば隠し通すことは難しい。
「おれ、滝沢の気持ち、ちょっとわかるなあ。タノさん、どう思います?」
「考えたこともない」
 正確には、考えないようにしていた。
「あいつの会社、フランス人に買収されたんですよね。滝沢は外国に研究成果を渡すのがイヤだった。だから盗んで逃げた。うん、わかる」
「おれたちは、そのフランスの手先だ」
「それとこれは話が別ですよ」
「滝沢に同情するな。見つけたら、多少手荒なこともするぞ」
「大丈夫っす。手荒なことなら任せてください」
「おまえ、何者だ?」
 藤巻はひゃひゃひゃと楽しそうに笑った。

3.1500時。CH-47J輸送ヘリコプターの内部は へ移動